鳴り止まない

あれから三年が経つ。


生きていた。僕は生きていた。

何気なく、メールボックスの過去を辿る。自分のブログの存在を思い出す小さなきっかけだった。


遠い。遠い記憶。まるで他人の人生のようだ。その文章を書いたのは他でもない僕なのに。三年、僕は生きていた。生きていて良かった。



生きていて良かったと、そう思えるようになって本当に良かった。

執筆3.

前記事でまとまらない頭を一旦クリアにしたのでもう一記事書こうと思う。


このブログは5月末あたりに開設した。

最初の記事は会社を辞めた日のこと。

ツイッターを通して、思いのほか多くの方が見て下さり社会人としては青二才で稚拙な僕の文章に対し、批判だとか、そういった類の感想は無く、とても嬉しかった覚えがある。

それからはちょくちょくと転職活動へシフトしていく自分の日記程度に書き溜めていった。


そもそもの前提として鬱病で働けなくなった筆者の駄文であることがこのブログの主旨である。


自分の気分の抑揚を形にして、自己分析するツールにしたかった。内容だってなるべくハッピーなものとまではいかなくとも、一生懸命な内容でいっぱいにしたいとは思っていた。


ところが僕は得体の知れない不安と恐怖に振り回されることが日に日に多くなり、したためていた記事を全て消してしまったり、あまつさえ遺書代わりに使ってしまった。



劣等感。焦燥感。無気力。僕の頭の中。



最近ではもはやこういった衝動すら自分で把握できているような気がしており、またいつか消すだろうだとか、ある種受け止めることができている。なるべくそうはならないといいけど。



再度ブログを書き始めたのは8月の末。自殺未遂から引き上げられ、精神病棟に強制入院し、2カ月の長い時を経て退院した後に書いた。地獄のような経験だった。僕は人が怖くなった。


あれから何があったかな、なんにもないな、もうこのままずっと外の空気に馴染めないまま腐っていきそうだ。相変わらず家庭に僕の居場所はない。なにか、生きようと思えるための目標を、明日には決めてみよう。



暑い日が続く。まるで真夏の間、病棟にいた僕に向けて遅れてやって来た皮肉めいた夏のようだ。


執筆2.

膠着状態。


過去は過去で、自分がもう元には戻れないことを受け入れること。


踏み外した階段が何処だったか探さないこと。


壊れたパズルをもう直そうとしないこと。




退院後、初めてハローワークへ行った。

いくつかの求人票を持ち帰った。

持ち帰った、ただそれだけ。



LINEをアンインストールした。

2日経つけど、気持ちは落ち着いている。

人が怖い。



ベッドから動けない。

これが体たらくと言うものか。






みんなの顔色伺いながら生きてきた結果。

執筆1.

2018年、真夏の日差しを私の肌は知らない。





確か、6月までは気候的には言うほど厳しいものではなかった気がする。気がするというのもその頃の記憶はもはやうろ覚えであり、なにより私自身が曖昧な状態で虚空を揺蕩っていたようなものだったからである。

ある日、いつも通りに起きて、いつも通りに朝食を摂り、ジーンズを履いてポロシャツのボタンを留め、1日のスタートを整えた。税金を振り込むことくらいがその日のやることだったのでさっさと用を済ませようと午前中に銀行へ向かった。

さぁ今日の用事は終わった。どうしようか。このまま家に帰るのも味気ない。少し、歩こうか。

などと考えているうちに足取りは軽くなっていく。目的地は無い。何かに引っ張られるように、何かから逃げるようにどんどん進んでいる。歩けば歩くほど頭は空っぽになっていく。



気がつくと私は河川を跨ぐ橋の上に立っていた。



掴んだ錆びた手すりと裸足の裏で感じるアスファルトの感触。



サイレン。 



以降のことはよく覚えていない。結局その日は夜中の11時まで転々と移動を繰り返した。これが一旦、最後の「外」の記憶である。



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6月22日。2人の友人が家に訪ねに来た。私は彼らと海の日に海を見に行くのを楽しみにしていた。



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無機質な小部屋で目が覚めた。打ちっぱなしのコンクリートの壁と1枚の分厚いガラス。ガラスの向こうにはSEIKOの壁掛け時計があり、床には食事が置いてある。手を付けずにいると女が入室してそれを片付けていった。

しばらくするとやや背高な年配の男がガラスの向こうに姿を現し、

「君はどうしてここにいるかわかるか?」

と不気味に尋ねてきた。

「少なくとも私の意志でここに来たわけではありません」

と、答えた。丸一日思考が止まっていたのだから当たり前っちゃ当たり前である。自覚はあったがまるで意味不明な回答をさも当然のように口走ったことで室内の不気味な雰囲気は一層増した。

「もう少し様子を見させてもらう」

と残して男は去っていった。また1人取り残された私は寝っ転がったり座ったりと忙しなく動いてみたが、時計はその動きに反比例するように不動の状態を保っている。

手持ちの私物も一切無いので天井を眺めてみる。数本の線と薄い陰影が立体を表現している。それは奥行きにも見えるし手前に迫っているようにも見える。手を伸ばせば遠のき、引っ込めればまた届きそう。ここでやっと時計は直前に目をやったときより5分進んでいた。

こんなことを一体いつまで繰り返せばここから出られるのか。私の理性は支柱を失った砂上の楼閣の如く瞬く間に崩れ去った。



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6月24日。かつては同僚と呼んでいた友人たちと集まる日曜日。今の彼らの悩みや幸せはなんだろうか。



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「無菌室」と名付けたこの部屋で過ごすようになってから10日ほど経った。私は既にまともに食事が摂れず、点滴を打たれていた。すると例の男が「部屋を移す」と伝えにきた。そこで男の呼び名が「主治医」であると知った。彼は、私がどんなに強く叩こうが微動だにしなかった扉を易々と開け、「無菌室」の外へ連れ出し、ボロいビジネスホテルの一室のような個室を与えてくれた。個室は他にもある程度の数はあるようで、新しい居場所は、さながら外国のアパートのような構造をしている。

「何も無いけどまだしばらくの辛抱だな」相変わらず抑揚の無いトーンで吐き捨てられた。なるほど相変わらず抑揚の無い生活が続きそうだ。何もしようがないのでどうすることもできない。ただ、「窓の外」の景色が新鮮に映った。何の変哲もない田舎の殺風景だが、田舎故にだだっ広い道路がさながら地平線のように横に続いている。私は行き交う車が残す白いヘッドライトと赤いテールランプを交互になぞりながら持て余した時間を延々と潰した。小さな光たちが映える頃にはうとうとしてきたのでベッドに横になり、また日が昇るまでの暇つぶしとして目を閉じた。



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6月29日。私宛の電話があった。受話器の向こうはすすり泣くような声だったという。



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結局午前4時だか5時だかに目が覚めてしまったのでただただぼんやりしてると8時に朝食の時間を知らせるコールが館内に流れた。

ここでは食堂で食事をするようだ。個室を出て廊下を歩いてると他の部屋の「住人たち」もぞろぞろと外に出てきた。新参者の私以外の住人はあらかじめ決まっていたような座席にまっすぐとついていき、それぞれが無言で味気ない飯を胃に流し込んでいく。他人のことを言えたもんじゃないが住人たちは皆、明らかに雰囲気がおかしい。しょうがないので私はその中でもまだマシな風体の、無精髭が印象的なおやっさんの横に座った。やや強面なおやっさんは意外にもフレンドリーだったので挨拶と軽い会話を済ませる事ができた。

食堂は憩いの場も兼用しているようで食事時以外も居てもよかった。そこにはテレビがあった。なにせ2週間近く「外」の様子を知らない。ニュース番組を回してみると、「外」の平均気温は軒並み35℃を記録し、過去例を見ない規模の水害が広島を襲い、太平洋の端では小さな台風が顔を覗かせている。またチャンネルを回してみると、綺麗な女性アナウンサーが涼しげに流行りの服を紹介し、一方で「熱さ」を体現したような若手体育会系男性アナウンサーが汗だくで辛い物を食べている。


「外」は紛れもなく夏になっていた。